2012年05月28日

歴史の萌えネタ 6


 鎌倉の呉服屋さんのショーウィンドーが袷の紬から、いつの間にか上布に替わっていました。

 そう言えば昨夜の大河ドラマ――舞台となる 『 保元の乱 』 は保元元年 ( = 1156年 )
旧暦七月、現代なら八月。
崇徳 “ エレガント井浦 ” 上皇側の公卿らが一様に纏っていた紫のお召し物は、夏着だったの
かしら ? …… なんて思い出しつつ。

 物語はまさに乱 ( = 戦闘 ) 突入 !
ま、戦闘と言っても、後白河 “ 松田 ” 帝側が戦上手 ( とゆーか、フツー ? ) なお陰で、
たった一日で ( … までも掛からず ? ) 決戦してしまうんだけど。
“ 山本 ” 頼ちゃんのしょーもない机上の空論のせいで作戦的にボロ負けする上皇側は、
絶望的な戦さを遂行させられる武士らを後目に逃走 !
こうなって来ると、史実は情け無いですな … ( 大汗 ) 。

 いゃ、歴史とはそーゆー容赦の無いものなんでしょう。
勿論予想外の敵来襲にアワ食って、鸚鵡の籠を抱えて逃げ惑う頼ちゃん …… そこんとこは
今回の脚色だったにしても、何だかなぁ〜 。
もうちっと戦闘への心構えとか、させないですかね ?
史書関連から情報拾うと、上皇軍は加勢待っていたのは本当らしいけど、だからって危機感
無さ過ぎ !

 ん〜〜 、それにあくまでも美緒ママ個人の感触ではありますが、頼長って寧ろもっと
硬派だった気がするんですよねー。
だいたい、公家の軟弱な体質・趣味情緒至上主義に一番反発してた本人じゃない ?
それが …… 理想世界しか見えなくなった偏狭が命取りではあったものの… (涙) 。

 そもそも、今は敵対する兄・関白 『 忠通 』 の養子だった少年時代、頼長 = 幼名
『 菖蒲若 ( あやわか ) 』は、なまじな武士の子も顔負けな馬術の上手であった、
と伝えられます。
都を離れた宇治で育った彼が、もしかしたら従兄弟 ( 家司・藤原盛実の孫 ) たちと
野山を駆って、馬術を磨いたのではないでしょうか ?
 その証拠には、ある時騎馬中に無茶をし過ぎたのか、生死をさまよう大怪我を負った
とも記録されています。
斯様にアクティブで硬派な少年貴族 !
それが、雅やかな宮廷人の典型であった義父・忠通兄より 「 貴族にあるまじき、野蛮な
武者の如き下品な振る舞い ! 」
と、常々蔑まれていたそうですから。

 そのまま育てば、 “ 武闘派の公家 ” になってたりしたんじゃ … ?
そうして乱の “ 軍師 ” として、信西にも負けぬ策略を巡らしていたとすれば !?
時代の流れが、少し違ったものになっていたかも !

 …… なぁんて、超妄想だけど (笑) 。




posted by 美緒ママ at 23:38| Comment(0) | 歴史 | 更新情報をチェックする